令和のかたち① ~個人が発信する時代~

知恵を育むライブラリー コラム
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令和元年に思いを馳せて

本日は即位礼正殿の儀がありましたので、たまには令和の時代について思いを綴ってみたいと思います。

とは言っても、筆者は霊感に乏しいですし、とくに超能力者でもないので、この記事はきっと悪い方でプライスレスかもしれません(笑)

ただ、歳を経たことで不思議と鼻が利くと言うか、妙な勘が働くようになりましたので、今回は普段けっして書かないようなことを数回に渡って書いていきたいと思います。

本当の意味での個人の時代

平成の頃から「個人の時代」と言われていましたが、令和の時代はどうなるでしょうか。

個人的にはコミュニケーションツールの発達により、これが加速度的に進むと考えています。
もちろん、個人の時代と言っても決して一人孤独に生きるような時代というわけではありません。

昭和生まれの筆者は、家庭を顧みない(顧みる暇がない?)会社一筋の父と控えめな母という当時は一般的なサラリーマン家庭に育ちました。

そのため考え方も昭和らしく、学生時代は将来大きな会社に入ってマイホームを持つのが一番の幸せだと思っているような、まさにステレオタイプの世代を象徴していた人間だったと思います。

そして、会社帰りは飲み屋で飲んで、テレビはもっぱらプロ野球、週末はゴルフという、皆が皆、同じ趣味や嗜好を持っていた(持たされていた)時代を見てきました。

今、冷静に考えてみても個性の乏しいつまらない時代ですね。

決まって誰かが用意した理想の生活や贅沢な暮らしがもてはやされ、マニュアル本も大いに流行りました。そこにはオリジナリティーのかけらもありません。

そう、当時の情報発信はメディアの特権であって、個人がフォーカスされることはほとんどなく、あまりにも情報が偏っていたのです。誰かが「右が良い」と言えば、みんな右を向くような時代でした。

しかし、今の時代は違います。

まだまだ意図的に情報を操作されている部分も見られますが、個人が簡単に多くの情報にアクセスできるようになりました。

また、そればかりでなく、ブログやSNSなどで情報発信も自ら行うことができてしまいます。
自分らしい生き方や仕事を探し出すことも可能な時代に変わってきています。

最近では、このことに早く気づいた人と従来の考え方から抜け出せない人とのギャップが生まれていますが、令和には今以上の膨大な情報量の差によって、未来に向かう人とそうでない人との間には大きな隔たりが起こるではないかと思われます。

かなり前に世間で騒がれた情報格差(デジタルディバイド)ですが、ほとんどの人にスマホが普及して収束してきた感があります。

しかし、ビッグデータや回線速度の向上により、実は個人のスキルによりアクセスできる情報量の差が更に広がっていき、よりいっそう情報格差が生まれる時代になる危険性があることに注意が必要です。

また、会社はこれまでのようにたくさんの社畜を飼うことで利益を生ませる牛舎のような存在ではなく、個人個人が自分に合った社会貢献ができる場を求め、その場所を提供するコミュニティーのような存在に少しずつ変容していくのではないでしょうか。

これからブラック企業や魅力の乏しい企業が容赦なく淘汰されていく時代がやって来ると見ています。(もう既に始まっていますね。)

スマホのイメージ

悪事を隠し通せない時代

最近のニュースに某電力会社の役員などが巨額の金品を受け取っていたことが公になる事件がありましたが、これからの時代、不祥事はなかなか隠し通せるものではなくなってきています。

その理由は、会社のお金が紙ではなくデータで厳密に記録されていたり(出ていくお金、入ってくるお金の流れ)、監視カメラやドライブレコーダーのような文明の利器のほか、コミュニケーションツールの発達で情報が非常に漏れやすくなったことなどが挙げられます。

一昔前なら、与えられた情報のウラを取ることは容易ではなく、そのまま鵜呑みにするしかないことが多かったのですが、ネット社会では匿名を傘に真実を話す人間もいますので、「ん?なにかおかしいぞ?」と気づける機会が増えています。

有名人や権力者でさえも、これまではお金や権力の力で隠せてきましたが、今では裏の顔が暴露されることも増えましたね。国際問題でも歴史の真実が明かされ、恣意的に情報を操作していた国は逆風に晒されることになるでしょう。

これからの時代にズルや不正を行うのは、とてもリスクがあります。

善意にせよ悪意にせよ、ふとしたことで外部に漏れてしまい、それが広がることが頻発します。

善良な人にとっては、正直者が報われることが多くなるため、良い時代になるんじゃないでしょうか。

次回は、令和時代の自然災害や紛争について考えてみたいと思います。

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